森田一義氏 赤塚さん葬儀で弔辞 全文

8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

 われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された、第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター…。私たち世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、いまでもハッキリ覚えています。

 「赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている…」

 この突然の出来事で、重大な事に、私はアガることすらできなかった。終わって私の所にやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。

 自分の人生にも、他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 それから、長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までドンチャン騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。色んなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと…。ほかのことも、いろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だにわたしにとって金言として、心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。

 赤塚先生は、本当にやさしい方です。シャイな方です。麻雀をするときも、相手のフリコミで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたが、麻雀で勝ったところを、見たことがありません。

 その裏には、強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を、快く受け入れました。そのために、ダマされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。

 あなたは、生活すべてがギャグでした。タコ(八郎)ちゃんの葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺のときタコちゃんの額をピシャリと叩いては「この野郎逝きやがった」と、また高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって、物事を無化していったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在を、あるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えを、あなたは見事に一言で言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。

 いま2人で過ごした色んな出来事が、場面が、思い浮かべられています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして、海外へのあの珍道中…。どれもが、本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりの、素晴らしい時間でした。最後になったのは、京都五山送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたはいま、この会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「お前もお笑いやっているなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は、人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。

 私はあなたに、生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは、肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気が堪らなかったのです。あなたも、同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、いま、お礼を言わさせていただきます。

 赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです。合掌。

 平成20年8月7日 森田一義